燃えるぜ!人生珍道中旅日記:樹
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もう午前四時を廻っただろうか。
公園、街灯の光が中途半端な位置に立ち誇る樹を照らし、
私は芝の根付いた傾斜に、膝を抱えて独り座り込んでいた。
疲れ果て、もうどうしていいのか、分からなくなっていた。
努力した。
勝つために寝る時間も惜しんで血を吐いた。
愛されるために自分の身を削っても尽くした。
尊ばれるため罵る者は全て潰した。
・・・それなのに。
結局は、何一つ報われなかった。
人生の勝利も、恋人も、名声も、全て自分から離れていった。
どうして、どうして私だけ・・・。
こんなにも努力しているのに、何故何も報われない。
倒れ、血を流し、それでも高みへと這い進み、それがどうして報われない・・・。
結局は、才能や能力が支配する世界なのだろうか。
私にはそれが無いから報われないのか。
もし神というものがあるならば、自分は相当忌まれ者であるに違いない。
選ばれし者、その対極。
渇き罅割れた貧田を、死が私を迎え入れるまで耕させる。
固い土は鍬をはじき、萌ゆる雑草は私を嗤う。
少ない実りは荒ぶる流水に蹴散らされる。
神の采配か悪魔の悪戯か、どうやら私には想い叶わぬ呪いがかかっているらしい。
そう、決して解けることのない。
醜い蛙は、王女のキスなどもらえない。
・・・・・やめよう。
考えることさえ、疲れてしまった。
生きている意味も、生きている価値も、今の私にはもう見つけられない。
いっそこのまま果てることが、私をこの苦しみから解き放つ報いとなるのかもしれない。
私は褐色の瓶を取り出す。
この中に入っているペレットを喉に流し込めば、私の生鎖を解き召してくれるだろう。
私が瓶の蓋に手をかけた、その時だった。
『ねぇ。』
後ろを振り向くと、七、八歳の少女が立っていた。
こんな時間に何をしているのだろう。
勿論、霊の類かとも思ったが、はっきりと見えるし、足もある。
人より霊感の少しばかり強い私なら、何らかの違和感を感じてもいいはずだが、それも無かった。
ただ、何故か少女の声は不思議な感じがした。
私の心の奥を穿るような、そんな声だった。
「どうしたんだ、君みたいな娘がこんな時間に。一人歩きは危ないぞ?」
少女は自分の頭に軽く拳骨を当て、舌を出した。
『家出してきちゃった。』
「・・・そっか。お母さんと喧嘩でもしたのかい?」
『ううん、そうじゃないけど。・・・お姉さんも、家出?』
「まあ、そんなところかな。」
『ふぅ〜ん・・・。』
私の隣にちょこんと腰を下ろす少女に見つからぬよう、褐色の瓶をポケットに戻した。
私と少女は暫くの間、一定の振動反応を繰り返す街灯の光を見つめていたが、
沈黙に耐え切れなくなったのか、少女は肩から掛けた桃色の小さなポシェットを開け、ごそごそと何やら探りはじめた。
少女が大切そうに取り出したのは、草臥れた一冊の絵本だった。
何らかの絵柄が描かれていたであろうその表紙は擦れて下地の色があらわになり、何度も読み返したであろう頁の側面は、手垢で染められていた。
少女は少しの間その本を見つめた後、それを私のほうに差し出した。
『お姉ちゃん、この本読んで。」
私に向けられた少女の栗色の瞳が、街灯の光を取り込み一層輝いて見えた。
『この本ね、たくさん難しい字があって読めないの。だから、お願い。』
少し戸惑ったが、私がもはや表紙のタイトルすら読み取れない絵本に手を掛けると、少女はにっこりと顔一杯に笑顔を浮かべた。
少女から絵本を受け取り、綻びた表紙を破らないようそっと開くと、かび臭いのか、インクのそれなのか、古書の独特のにおいが私の鼻を突いた。
私は、母親にでもなったかのような錯覚を感じつつも、少女に絵本を読み聞かせはじめた。
【黒猫と女の子】
「やめなさいよ。」
女の子は、広場の隅で独りただずんでいるダンボールに群がった三人の男の子に鋭い言葉を放った。
女の子より二つか三つほど上か、やんちゃ盛りの男の子達が振り向いた。
「うるせぇなぁ、女子は引っ込んでろよ。」
男の子三人は、女の子が夕暮れで伸ばされたその影にすっぽりと収まってしまうほど体格も大きかったが、女の子は怯まなかった。
「あんた達のお母さん、呼ぶよ?」
「家知ってんのかよ?」
少女は厳しい表情のままで眉一つ動かすことなく、男の子達の胸にぶら下がった名札を指差した。
「町内会で、その名前見かけたことあるから。」
「・・・・・・・。」
男の子達は罰の悪そうな顔をすると、女の子を睨み付け、その場から早足で立ち退いた。
去り際に、阿呆だの、馬鹿だの、低俗な侮辱を受けたが、女の子にとってはどうでもいいことだった。
ただ、女の子が気にかけていたのは、ダンボールの中で蹲っていた一匹の黒い子猫のこと。
女の子が覗き込むと、猫は無垢の瞳を女の子に向け、にゃーんと、小さく一度だけ鳴いた。
「良かった。」
幸いにも、男の子達に棒切れでつつかれていた猫に怪我はなく、女の子はそれを確かめると、先ほどまでの厳しい表情を崩し、優しく微笑んだ。
二週間ほど前、春の陽気な気候の下、そのダンボールは広場の隅っこに現れた。
ダンボールの中の一匹の子猫は、女の子が帰り道にそれを見つけ手を近づけると、その小さくて細い指に人懐っこくじゃれた。
子猫は、外傷はないが骨でも折っているのか、それとも生まれつきなのか、足が悪いようで歩くことが出来なかった。
女の子は、友達も少なく、共働きの両親ともあまり接することの出来ない孤独な自分の影をその黒猫と重ね、彼女にアイリと名付け、友達になることに決めた。
次の日、女の子は給食で残ったパン切れと牛乳を子猫のもとに運んだ。
相当腹が減っていたのだろう、黒猫がその可愛らしさからは想像もできない勢いで、がっついてそれ平らげたのを見届けると、その次の日もパン切れと牛乳を運び、また黒猫に与えた。
そして、その次の日も、そのまた次の日も。
いつしか、黒猫にえさを与え、小一時間ほど戯れて帰るのが、女の子の日課となっていた。
それは、晴れの日も、雨の日でも変わらず行われた。
天気予報で、明日は雨だと聞いた日は、ダンボールの両脇に棒切れを一本ずつ立ててテープで固定し、そこにビニールシートを掛け、屋根を作ってやった。
天気予報が外れ、雨が降り子猫が濡れてしまった時は、汗を拭くためのハンドタオルで子猫のまだ産毛のように柔らかくふんわりとした毛並みを拭き、女の子のしゃがみこんだその胸と膝に抱いて暖めてやった。
大分汚れて草臥れてきたダンボールも、小学校の廃材からこっそり拝借し、少し前に新しいものに換えてやった。
ところで、この猫には少し変わったところがあった。
ある日、女の子がたまたま持ち合わせたゆすらの木の実を与えたところ、喜ばしい表情(少なくとも女の子にはそう見えた)をしてそれを食し、器用に種だけ吐き出したのだ。
毎日だとお腹を壊すから、と、女の子は二日か三日に一度、家の裏に茂っている小柄な樹から、赤く熟した実を一粒とってきては、パン切れの後にそれを与えた。
そんな日が続き、人懐っこかった猫は、女の子にさらに懐くようになり、その姿は本当に友達であるかのようだった。
だが、別れは突然訪れた。
女の子に深い傷を残す形で。
猫が現れてから三週間ほど経ったある日、帰り道、女の子はいつものように黒猫にパン切れと牛乳を運んだ。
だが、それは果たされなかった。
女の子はダンボールの前に立ち尽くし、パン切れと牛乳を落としてしまったからだ。
ダンボールの底部は真っ赤に染められ、その上に、力なく女の子の親友が横たわっていた。
猫の身体には、何かの鈍器で殴られたような傷が幾つもあり、そして先の尖った竹串が何本も刺さっていた。
落とした瓶から流れ出た白い液体の水面に、女の子の熱いものが一粒落ち、円状の波紋が広がった。
女の子はゆっくりとしゃがみこみ、黒猫を抱き上げて膝に乗せた。
そして、涙を拭うごとに一本ずつ、心無く親友の身体に打ち込まれた杭を抜いていった。
まだ温かい猫の身体から流れ出た紅は、女の子にじゃれるかのように、手と、膝と、白いブラウスを染めていった。
全ての竹串を抜き終わると、猫を抱いたまま、女の子は立ち上がり何処かへゆっくりと歩き出した。
溜まり場は知っていた。
古寺の敷地で、日が暮れるまで遊び呆けているのをよく見かけたから。
いつものように、日が暮れる間際まで古寺で戯れていた三人の男の子の前に、全身を真っ赤に染めた女の子は姿を現した。
その姿は、男の子達に驚愕と恐怖と、そして脅威さえ与え、彼らの足を麻痺させた。
女の子の非常な姿に、内二人は腰を抜かして、先ほどまで駆け回り蹴飛ばしていた土でズボンを汚した。
「あんた達でしょ?」
「・・・。」
猫を殺した少年達は恐怖のあまり、それを否定することも、口を開くことすらも出来なかった。
女の子は悲しげな表情で男の子達にゆっくりと歩み寄り、独活の大木のように辛うじて突っ立っている男の子の肩に手を掛けた。
左手に猫を抱いた女の子の右手は、男の子の泥と垢で汚れたポロシャツを濡らし、それは男の子の後悔に変わり、服を透過し肌に染み込んだ赤い融液は、男の子に、取り返しのつかないことをしたという事を気付かせた。
次第に男の子の足はがたがたと震え始め、終には女の子の肩に掛けた手から逃れ、へたり込んでしまった。
その放心した瞳からは、ぽろぽろと女の子の流したものと同じ熱いものが零れはじめた。
「・・・めんな・・・い・・・。」
うつむいた男の子は、喉に何か詰まったような声を放った。
「・・・ごめんなさい!」
ただ、それだけ。
それだけを言うと、男の子は泣き崩れ、小さく震える声でごめんなさいを呪文のように唱えていた。
そのときの男の子には、それ以外の何の謝罪の言葉も浮かばなかったのだ。
その男の子の姿を見て、腰を抜かしてへたり込んでいた二人の男の子達も次々と涙を流し、女の子と、そしてその親友に謝った。
女の子は、広場のダンボールがあったその場所に、黒猫の亡骸を埋めた。
親友と出会ったその場所に、楽しい時間を共に過ごした、その場所に。
女の子はまだ血だらけのままの手で、大きめの石を一つ拾い上げ、黒猫の名前を彫刻等で彫って墓石とした。
そして、その日、猫に与えるはずだったゆすらの赤い実を、盛り土に作ったくぼみに供え、眼を閉じ手を合わせた。
女の子は、その日さよならを言わなかった。
すっかり日が暮れてしまった広場の隅で、あたかも黒猫に寄り添うかのように、その傍らにいつまでも座っていた。
私は、絵本を閉じた。
今度は同様に草臥れた裏表紙が上になった。
どうして。
何故、気付かなかったんだろう。
『思い出した?』
そう、思い出した。
【黒猫と女の子】、それは、紛れもなく、
私の物語。
そして、私の横に膝を抱えて座っている少女の声に違和感を覚えたのは、それが私の声と同じだったから。
ちょうど、私が黒猫と過ごした時代の。
あの日から、街は色々と変わった。
そして私も。
広場と呼ばれていたその場所は、行政の改築工事で手が加えられ、公園と呼ばれるようになり、
私が猫を埋葬した広場の隅っこは、公園の中心とも西側ともいえない、中途半端な位置になっていた。
今、振動反応を続ける街灯が照らしている、ちょうどあの樹のあたりに。
青々と茂ったゆすらの樹の下には、少し大きめの石ころがその根に包まれるように固定されている。
コンタクト越しにその石を良く見てみると、そこには覚えたばかりの幼稚で読みにくい文字が刻まれていた。
そう、嘗ての私の親友の名が。
【アイリ】
『お姉ちゃん。』
私は少女、いや、あの時の私のほうを見る。
よく見ると、少女の服や手や膝は、あの時のまま、親友の血で赤く染められていた。
そっと掛けられた少女のその手は、大分時間が経っているだろうに、今尚流動し、私の腕を濡らした。
しかし、それは温かく、そこに恐怖など感じさせず、私に優しく染み込んでいった。
それは血の管を律速に進み、私の心にあの日の思い出と、親友の思いを流し込んだ。
『この本ね、本当は私が聞きたかったわけじゃないの。この本は、お姉ちゃんに読んで欲しかったの。』
「・・・どうして・・・?」
『お姉ちゃん、色々忘れちゃったみたいだから。』
そうだ。
私はすっかり忘れてしまっていた。
あの頃の、あの気持ちを。
受験だの、主席だの、争うばかりの社会の中で、私は何もかも忘れてしまっていた。
あの頃の私は、報われるか報われないかなどの利益は微塵も求めていなかった。
ただ、私が慈しみ助けることで、親友が救われればそれでいい、それだけを考えていた。
そう、
報われることなど必要なかった。
きっと今も変わらない。
あれから十数年が経ち、自分では気づかなかったが、既に私はいくつかの大切なものを手に入れていた。
ああ、私はそれを何と粗雑に扱ってきたのだろう。
何度無粋な言葉で傷つけたことだろう。
昔も、今も、報われることなど必要ない。
ただ、その大切なものの笑顔がそこにあれば、それで私は報われていたのだ。
そして、その笑顔を守るため、彼らの苦悩と痛みを和らげるため働きかけるべきだったことに、今やっと気づいた。
生きている意味も、生きている価値も、私を苦しめていたその全ては必要のないことだった。
本当に私に必要だったのは、私が【何のために生きるか】ということだけだったのだ。
「・・・ありがとう。」
私は血だらけの少女に向かって言った。
「思い出したよ、あの頃のこと。」
『良かった。』
少女は、夜を照らすかのような、明るい微笑を浮かべた。
『ゆすらの実、来年は実るといいね。』
にっこりと笑った少女が指差した先には、この時期、赤い実を鈴なりにつけるはずのゆすらの樹が青々と茂っていた。
まるで、私がその樹の意味を思い出し、悪い蟲が死に落ちるのを待っていたかのように。
私が視線を戻すと、もうそこに少女の姿はなかった。
陽光が夜を割り、空を照らしはじめた。
次第に天は赤く染められ、浮かんでいる月が景色に溶け込めなくなってきている。
私は立ち上がる。
Twilight.
それはきっと、私の夕暮れ。
そして、新しい私の夜明け。
もう、失くしたものは取り戻した。
大切なものは見つかった。
帰ろう。
其処には、新しい私の、新しい今日が待っている。
赤々と煮えたぎるマグマのようなアスファルトは、白色に輝く天上界の道へと変わり、
私は新世界へと繋がっているであろうその旅路を、ゆっくりと歩きはじめた。
後に私は、私が人生の中で経験したことを物語にした。
【樹】と題されたその第一部は、あまりに未熟で、到底、人に見せられるようなものではなかったが、それは私の処女作となった。
公園、街灯の光が中途半端な位置に立ち誇る樹を照らし、
私は芝の根付いた傾斜に、膝を抱えて独り座り込んでいた。
疲れ果て、もうどうしていいのか、分からなくなっていた。
努力した。
勝つために寝る時間も惜しんで血を吐いた。
愛されるために自分の身を削っても尽くした。
尊ばれるため罵る者は全て潰した。
・・・それなのに。
結局は、何一つ報われなかった。
人生の勝利も、恋人も、名声も、全て自分から離れていった。
どうして、どうして私だけ・・・。
こんなにも努力しているのに、何故何も報われない。
倒れ、血を流し、それでも高みへと這い進み、それがどうして報われない・・・。
結局は、才能や能力が支配する世界なのだろうか。
私にはそれが無いから報われないのか。
もし神というものがあるならば、自分は相当忌まれ者であるに違いない。
選ばれし者、その対極。
渇き罅割れた貧田を、死が私を迎え入れるまで耕させる。
固い土は鍬をはじき、萌ゆる雑草は私を嗤う。
少ない実りは荒ぶる流水に蹴散らされる。
神の采配か悪魔の悪戯か、どうやら私には想い叶わぬ呪いがかかっているらしい。
そう、決して解けることのない。
醜い蛙は、王女のキスなどもらえない。
・・・・・やめよう。
考えることさえ、疲れてしまった。
生きている意味も、生きている価値も、今の私にはもう見つけられない。
いっそこのまま果てることが、私をこの苦しみから解き放つ報いとなるのかもしれない。
私は褐色の瓶を取り出す。
この中に入っているペレットを喉に流し込めば、私の生鎖を解き召してくれるだろう。
私が瓶の蓋に手をかけた、その時だった。
『ねぇ。』
後ろを振り向くと、七、八歳の少女が立っていた。
こんな時間に何をしているのだろう。
勿論、霊の類かとも思ったが、はっきりと見えるし、足もある。
人より霊感の少しばかり強い私なら、何らかの違和感を感じてもいいはずだが、それも無かった。
ただ、何故か少女の声は不思議な感じがした。
私の心の奥を穿るような、そんな声だった。
「どうしたんだ、君みたいな娘がこんな時間に。一人歩きは危ないぞ?」
少女は自分の頭に軽く拳骨を当て、舌を出した。
『家出してきちゃった。』
「・・・そっか。お母さんと喧嘩でもしたのかい?」
『ううん、そうじゃないけど。・・・お姉さんも、家出?』
「まあ、そんなところかな。」
『ふぅ〜ん・・・。』
私の隣にちょこんと腰を下ろす少女に見つからぬよう、褐色の瓶をポケットに戻した。
私と少女は暫くの間、一定の振動反応を繰り返す街灯の光を見つめていたが、
沈黙に耐え切れなくなったのか、少女は肩から掛けた桃色の小さなポシェットを開け、ごそごそと何やら探りはじめた。
少女が大切そうに取り出したのは、草臥れた一冊の絵本だった。
何らかの絵柄が描かれていたであろうその表紙は擦れて下地の色があらわになり、何度も読み返したであろう頁の側面は、手垢で染められていた。
少女は少しの間その本を見つめた後、それを私のほうに差し出した。
『お姉ちゃん、この本読んで。」
私に向けられた少女の栗色の瞳が、街灯の光を取り込み一層輝いて見えた。
『この本ね、たくさん難しい字があって読めないの。だから、お願い。』
少し戸惑ったが、私がもはや表紙のタイトルすら読み取れない絵本に手を掛けると、少女はにっこりと顔一杯に笑顔を浮かべた。
少女から絵本を受け取り、綻びた表紙を破らないようそっと開くと、かび臭いのか、インクのそれなのか、古書の独特のにおいが私の鼻を突いた。
私は、母親にでもなったかのような錯覚を感じつつも、少女に絵本を読み聞かせはじめた。
――――――――――――――――――――――――――
【黒猫と女の子】
「やめなさいよ。」
女の子は、広場の隅で独りただずんでいるダンボールに群がった三人の男の子に鋭い言葉を放った。
女の子より二つか三つほど上か、やんちゃ盛りの男の子達が振り向いた。
「うるせぇなぁ、女子は引っ込んでろよ。」
男の子三人は、女の子が夕暮れで伸ばされたその影にすっぽりと収まってしまうほど体格も大きかったが、女の子は怯まなかった。
「あんた達のお母さん、呼ぶよ?」
「家知ってんのかよ?」
少女は厳しい表情のままで眉一つ動かすことなく、男の子達の胸にぶら下がった名札を指差した。
「町内会で、その名前見かけたことあるから。」
「・・・・・・・。」
男の子達は罰の悪そうな顔をすると、女の子を睨み付け、その場から早足で立ち退いた。
去り際に、阿呆だの、馬鹿だの、低俗な侮辱を受けたが、女の子にとってはどうでもいいことだった。
ただ、女の子が気にかけていたのは、ダンボールの中で蹲っていた一匹の黒い子猫のこと。
女の子が覗き込むと、猫は無垢の瞳を女の子に向け、にゃーんと、小さく一度だけ鳴いた。
「良かった。」
幸いにも、男の子達に棒切れでつつかれていた猫に怪我はなく、女の子はそれを確かめると、先ほどまでの厳しい表情を崩し、優しく微笑んだ。
二週間ほど前、春の陽気な気候の下、そのダンボールは広場の隅っこに現れた。
ダンボールの中の一匹の子猫は、女の子が帰り道にそれを見つけ手を近づけると、その小さくて細い指に人懐っこくじゃれた。
子猫は、外傷はないが骨でも折っているのか、それとも生まれつきなのか、足が悪いようで歩くことが出来なかった。
女の子は、友達も少なく、共働きの両親ともあまり接することの出来ない孤独な自分の影をその黒猫と重ね、彼女にアイリと名付け、友達になることに決めた。
次の日、女の子は給食で残ったパン切れと牛乳を子猫のもとに運んだ。
相当腹が減っていたのだろう、黒猫がその可愛らしさからは想像もできない勢いで、がっついてそれ平らげたのを見届けると、その次の日もパン切れと牛乳を運び、また黒猫に与えた。
そして、その次の日も、そのまた次の日も。
いつしか、黒猫にえさを与え、小一時間ほど戯れて帰るのが、女の子の日課となっていた。
それは、晴れの日も、雨の日でも変わらず行われた。
天気予報で、明日は雨だと聞いた日は、ダンボールの両脇に棒切れを一本ずつ立ててテープで固定し、そこにビニールシートを掛け、屋根を作ってやった。
天気予報が外れ、雨が降り子猫が濡れてしまった時は、汗を拭くためのハンドタオルで子猫のまだ産毛のように柔らかくふんわりとした毛並みを拭き、女の子のしゃがみこんだその胸と膝に抱いて暖めてやった。
大分汚れて草臥れてきたダンボールも、小学校の廃材からこっそり拝借し、少し前に新しいものに換えてやった。
ところで、この猫には少し変わったところがあった。
ある日、女の子がたまたま持ち合わせたゆすらの木の実を与えたところ、喜ばしい表情(少なくとも女の子にはそう見えた)をしてそれを食し、器用に種だけ吐き出したのだ。
毎日だとお腹を壊すから、と、女の子は二日か三日に一度、家の裏に茂っている小柄な樹から、赤く熟した実を一粒とってきては、パン切れの後にそれを与えた。
そんな日が続き、人懐っこかった猫は、女の子にさらに懐くようになり、その姿は本当に友達であるかのようだった。
だが、別れは突然訪れた。
女の子に深い傷を残す形で。
猫が現れてから三週間ほど経ったある日、帰り道、女の子はいつものように黒猫にパン切れと牛乳を運んだ。
だが、それは果たされなかった。
女の子はダンボールの前に立ち尽くし、パン切れと牛乳を落としてしまったからだ。
ダンボールの底部は真っ赤に染められ、その上に、力なく女の子の親友が横たわっていた。
猫の身体には、何かの鈍器で殴られたような傷が幾つもあり、そして先の尖った竹串が何本も刺さっていた。
落とした瓶から流れ出た白い液体の水面に、女の子の熱いものが一粒落ち、円状の波紋が広がった。
女の子はゆっくりとしゃがみこみ、黒猫を抱き上げて膝に乗せた。
そして、涙を拭うごとに一本ずつ、心無く親友の身体に打ち込まれた杭を抜いていった。
まだ温かい猫の身体から流れ出た紅は、女の子にじゃれるかのように、手と、膝と、白いブラウスを染めていった。
全ての竹串を抜き終わると、猫を抱いたまま、女の子は立ち上がり何処かへゆっくりと歩き出した。
溜まり場は知っていた。
古寺の敷地で、日が暮れるまで遊び呆けているのをよく見かけたから。
いつものように、日が暮れる間際まで古寺で戯れていた三人の男の子の前に、全身を真っ赤に染めた女の子は姿を現した。
その姿は、男の子達に驚愕と恐怖と、そして脅威さえ与え、彼らの足を麻痺させた。
女の子の非常な姿に、内二人は腰を抜かして、先ほどまで駆け回り蹴飛ばしていた土でズボンを汚した。
「あんた達でしょ?」
「・・・。」
猫を殺した少年達は恐怖のあまり、それを否定することも、口を開くことすらも出来なかった。
女の子は悲しげな表情で男の子達にゆっくりと歩み寄り、独活の大木のように辛うじて突っ立っている男の子の肩に手を掛けた。
左手に猫を抱いた女の子の右手は、男の子の泥と垢で汚れたポロシャツを濡らし、それは男の子の後悔に変わり、服を透過し肌に染み込んだ赤い融液は、男の子に、取り返しのつかないことをしたという事を気付かせた。
次第に男の子の足はがたがたと震え始め、終には女の子の肩に掛けた手から逃れ、へたり込んでしまった。
その放心した瞳からは、ぽろぽろと女の子の流したものと同じ熱いものが零れはじめた。
「・・・めんな・・・い・・・。」
うつむいた男の子は、喉に何か詰まったような声を放った。
「・・・ごめんなさい!」
ただ、それだけ。
それだけを言うと、男の子は泣き崩れ、小さく震える声でごめんなさいを呪文のように唱えていた。
そのときの男の子には、それ以外の何の謝罪の言葉も浮かばなかったのだ。
その男の子の姿を見て、腰を抜かしてへたり込んでいた二人の男の子達も次々と涙を流し、女の子と、そしてその親友に謝った。
女の子は、広場のダンボールがあったその場所に、黒猫の亡骸を埋めた。
親友と出会ったその場所に、楽しい時間を共に過ごした、その場所に。
女の子はまだ血だらけのままの手で、大きめの石を一つ拾い上げ、黒猫の名前を彫刻等で彫って墓石とした。
そして、その日、猫に与えるはずだったゆすらの赤い実を、盛り土に作ったくぼみに供え、眼を閉じ手を合わせた。
女の子は、その日さよならを言わなかった。
すっかり日が暮れてしまった広場の隅で、あたかも黒猫に寄り添うかのように、その傍らにいつまでも座っていた。
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私は、絵本を閉じた。
今度は同様に草臥れた裏表紙が上になった。
どうして。
何故、気付かなかったんだろう。
『思い出した?』
そう、思い出した。
【黒猫と女の子】、それは、紛れもなく、
私の物語。
そして、私の横に膝を抱えて座っている少女の声に違和感を覚えたのは、それが私の声と同じだったから。
ちょうど、私が黒猫と過ごした時代の。
あの日から、街は色々と変わった。
そして私も。
広場と呼ばれていたその場所は、行政の改築工事で手が加えられ、公園と呼ばれるようになり、
私が猫を埋葬した広場の隅っこは、公園の中心とも西側ともいえない、中途半端な位置になっていた。
今、振動反応を続ける街灯が照らしている、ちょうどあの樹のあたりに。
青々と茂ったゆすらの樹の下には、少し大きめの石ころがその根に包まれるように固定されている。
コンタクト越しにその石を良く見てみると、そこには覚えたばかりの幼稚で読みにくい文字が刻まれていた。
そう、嘗ての私の親友の名が。
【アイリ】
『お姉ちゃん。』
私は少女、いや、あの時の私のほうを見る。
よく見ると、少女の服や手や膝は、あの時のまま、親友の血で赤く染められていた。
そっと掛けられた少女のその手は、大分時間が経っているだろうに、今尚流動し、私の腕を濡らした。
しかし、それは温かく、そこに恐怖など感じさせず、私に優しく染み込んでいった。
それは血の管を律速に進み、私の心にあの日の思い出と、親友の思いを流し込んだ。
『この本ね、本当は私が聞きたかったわけじゃないの。この本は、お姉ちゃんに読んで欲しかったの。』
「・・・どうして・・・?」
『お姉ちゃん、色々忘れちゃったみたいだから。』
そうだ。
私はすっかり忘れてしまっていた。
あの頃の、あの気持ちを。
受験だの、主席だの、争うばかりの社会の中で、私は何もかも忘れてしまっていた。
あの頃の私は、報われるか報われないかなどの利益は微塵も求めていなかった。
ただ、私が慈しみ助けることで、親友が救われればそれでいい、それだけを考えていた。
そう、
報われることなど必要なかった。
きっと今も変わらない。
あれから十数年が経ち、自分では気づかなかったが、既に私はいくつかの大切なものを手に入れていた。
ああ、私はそれを何と粗雑に扱ってきたのだろう。
何度無粋な言葉で傷つけたことだろう。
昔も、今も、報われることなど必要ない。
ただ、その大切なものの笑顔がそこにあれば、それで私は報われていたのだ。
そして、その笑顔を守るため、彼らの苦悩と痛みを和らげるため働きかけるべきだったことに、今やっと気づいた。
生きている意味も、生きている価値も、私を苦しめていたその全ては必要のないことだった。
本当に私に必要だったのは、私が【何のために生きるか】ということだけだったのだ。
「・・・ありがとう。」
私は血だらけの少女に向かって言った。
「思い出したよ、あの頃のこと。」
『良かった。』
少女は、夜を照らすかのような、明るい微笑を浮かべた。
『ゆすらの実、来年は実るといいね。』
にっこりと笑った少女が指差した先には、この時期、赤い実を鈴なりにつけるはずのゆすらの樹が青々と茂っていた。
まるで、私がその樹の意味を思い出し、悪い蟲が死に落ちるのを待っていたかのように。
私が視線を戻すと、もうそこに少女の姿はなかった。
陽光が夜を割り、空を照らしはじめた。
次第に天は赤く染められ、浮かんでいる月が景色に溶け込めなくなってきている。
私は立ち上がる。
Twilight.
それはきっと、私の夕暮れ。
そして、新しい私の夜明け。
もう、失くしたものは取り戻した。
大切なものは見つかった。
帰ろう。
其処には、新しい私の、新しい今日が待っている。
赤々と煮えたぎるマグマのようなアスファルトは、白色に輝く天上界の道へと変わり、
私は新世界へと繋がっているであろうその旅路を、ゆっくりと歩きはじめた。
後に私は、私が人生の中で経験したことを物語にした。
【樹】と題されたその第一部は、あまりに未熟で、到底、人に見せられるようなものではなかったが、それは私の処女作となった。