影に罪を、雪に償いを:影に罪を、雪に償いを
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闇夜に、一筋の赤熱した軌道が走る。
「裏水鴎流・闇斬ノ太刀・・・」
一閃が異形を透かし、月が晴れた時、既に死人は両断されていた。
余程の未練をこの世に残したのか、上半身だけになりつつも彼は儂の足元に縋(すが)り付く。
「悪いな。だが、もう眠れ・・・」
儂が破城刀【貫徹/鈴音】の峰でその頭を砕き、彼は腐敗した内容物を冷淡なアスファルトにぶちまけた。
月が再び姿を隠すと、それは浅ましい異臭を放つ気体と化し月影に蒸発した。
「ん。」
彼への手向けの花が儂の左手から離れた時、頬に冷たいものが降り溶け広がった。
空を見上げると旬の白い天使が彼を導くように地上に舞い降り、場を清めては消えた。
「雪、か・・・。」
丁度この頃だったか、あの誓いの日は。
「もう、五年になるか。」
贄の下、黒鉄により打たれた破城刀を鞘にしまうと、儂は再び濁天を仰いだ。
あの日と同じように。
「ど、どわっ!?」
・・・!!
重低音と共に、美しく整えられた庭園の一角が陥没する。
地面は割れ、石は砕かれ、その有様と言ったら以前の姿を知っている者なら誰でも目を覆いたくなるものだろう。
「はぁ、またやっちまった・・・。」
縁側を駆け寄ってくる草鞋の音を脇に、俺は毎度の失態に耳の後ろが痒くなった。
「あっ、やっぱり兄様だったのですね。」
薄手の振袖を身に纏った少女が、笑いながらも呆れた顔を俺に向けた。
「ああ、どうも上手くないんだよなぁ。」
少女は軽く溜め息をついて。
「兄様はまだそんな重いもの振れなくて良いのです。危なくなったら、この愛(いと)がお守り致しますわ。」
愛は唇に色白の小さい手を当て、くすくすと笑った。
「そうは言ってもな。妹に守られてる兄貴なんざ、格好悪いことこの上ないからな。・・・父上の残したこの太刀、何としても扱えるようにならねぇと。」
決意を再認し、俺は破城刀の柄を強く握り締めた。
愛(いと)、誰からも愛おしまれるようにと父上がつけた名だ。
幼少の頃は気にかけることは無かったが、数えの十なった今ではその名に恥じぬ可憐な容姿と温厚な性格を持ち合わせた人物に見える。
まあ、兄の俺が言うのもなんだが。
「お父上も仰られていたように、使うべきときが来れば自然とものになりますよ。・・・それに毎朝お庭がこの有様では、和子さんに申し訳が立ちませんし・・・。」
「かと言って、道場で降るわけにもいかないだろ?」
「そ、それはそうですけど・・・。」
毎朝道場の床をぶち抜くのか、その質問に愛は表情を曇らせた。
「私のことはお構いなく。」
愛の後ろから割烹着の女性が現れる。
「和子さん。」
一年前に俺の両親が逝った時、殆どの侍女は辞職届だけを残し此処を去った。
中にはここぞとばかりに年代物の骨董品を持ち出し、霧か霞のように消えた者もいた。
しかしこの和子という若い侍女は物好きにも居残り、俺たちの面倒を見てくれている。
滅多なことでは怒らない温厚さ、何事にも動じない肝の据わった一面、彼女からは時々母親の匂いがする。
「いつも迷惑をかけて済まねぇな。」
「本当に、ごめんなさい。」
愛が深々と頭を下げる。
「いいえ、この『日課』をしないと、私も一日の仕事に身が入りませんから。」
和子は可愛げに皮肉を込めて、若き主をからかった。
彼女の言う冗談は、いつも悪い気がしなかった。
将来、嫁をとるなら彼女の様な女性をと思っていたが、既婚であるのが悔やまれる。
和子の細身の腰から、少女は赤らめた頬を半分覗かせている。
「友恵姉さん。」
愛が少女の名を呼ぶと、後ろの影はびくりと身を振るわせた。
愛は和子の態度から、彼女を母のように慕っている節があり、その娘である友恵を親しみを込めて姉と呼んでいる。
「こら、友恵、朝のご挨拶しなさい。」
少女は母の小振りな尻に顔を押し付け、嫌々と首を横に振る。
少し羨ましいかも、娘の特権恐るべし。
如何わしい考えが表情に浮かんだか、隣に並ぶ愛が俺の手の甲を抓った。
「・・・済みませんね、この子ったら人見知りが激しくて。」
流石の和子お母さんも、これには手を焼いているようだ。
俺の一つ下―満の十一になってもこれでは、確かに和子の困りようにも頷ける。
「ったく・・・。」
こんな場で使うのは如何なものかと思いつつも、俺は日頃鍛えた俊敏性で素早く和子の後ろに回りこみ、逃れられぬよう友恵を抱き上げた。
「あ・・・」
小さく漏らして、友恵はじたばたと俺の腕の中で暴れ出す。
無論、それを離すはずも無い俺は抵抗する彼女の顔を凝視して。
「友恵。・・・友恵、おはよう。」
一瞬、彼女の抵抗が治まり。
「・・・おはよう、ございます・・・。」
友恵の顔は更に赤みを帯びて、火を噴出しそうだ。
愛の笑顔は黒かった、本能がそこに尋常ならざるものを感じて、俺は友恵を降ろした。
「ほら、愛にも挨拶してやってくれ。」
友恵は地面に足がつくと、俯いてもじもじと手をすり合わせながら。
「あ、あの・・・お、おはようございます・・・。」
「おはよう、友恵姉さん。」
気のせいだったか、愛の笑顔は純白に戻っていた。
友恵はこんなことで大丈夫なのだろうか、通う女子学園の小等部で変ないじめ等にあっていなければいいが・・・。
と、この様に心配してしまう節も愛に毒されているのかもしれない。
まあ、妹が一人増えたみたいで、悪い気はしないが。
「あ、そうそう。」
和子がぽんと手を打った。
「お昼から一瀬さんがお見えになるそうですよ。何でも、新しい家族を紹介したいそうで。」
「へぇ、新しい家族ねぇ。・・・おめでたか?」
「もう、兄様!」
友恵の顔はもう爆発寸前だ。
二人の妹、特に友恵はこういう弄り方をした時、一番可愛いのだ。
悪いと分かりつつもやってしまう不甲斐無い兄を許せよ?
「やあ、徹斎君に愛ちゃん、二人とも元気かい?」
「ええ、お陰さまで。本当にいつもお世話になってばかりで・・・」
俺と愛は、一瀬家当主・義一に深々と頭を下げる。
上座に座っているのが申し訳ないくらいだ。
「はっはっは、そんなに改まらなくても良いよ。君たちの事は、小さい頃から見てきた付き合いだしね。」
豪快に笑い飛ばした義一は、全くそういったことを気にしない大らかな人柄だ。
厳格だった父・羅剛(らごう)と親友として、そして死人との戦いで共に血に染まった戦友として噛み合ったのが不思議なくらいだ。
「いえ、色々と面倒を見ていただいたのも事実ですし、拝家当主としてここはけじめをつけて置かないと。」
一年前、両親が戦いの中で果てた際、この拝宗家は経済的にも人事的にも没落寸前の状態だった。
跡取りである嫡子は十を過ぎたばかりの子供、退魔の業もまともにこなせない、社会的繋がりの周りの人間たちは急速に離れていった。
そんな折、俺を拝宗家の当主に指名し、執権(いわば面倒見役)を申し出てくれたのが彼だった。
彼は退魔の業を引退後、投資家として活躍し、現在はどこぞの教育法人団体にも手を広げたのだとか。
一説によると、その団体も現役時代の絡みだとか。
まあ、退魔を生業とするもの同士、出会ったときには味方でありたいものだ。
「ところで、今日はどういった御用向きで・・・?奥様はお見えになっていないようですが・・・。」
義一は屈託も無くにっと笑顔を浮かべる。
「ああ、残念ながら、おめでたじゃないよ。」
俺の考えを読むことも、彼の長所であり俺から見た短所である。
「二人とも、入っておいで。」
年は小等部の中学年ほどだろうか、少年が今年二歳になった義一の娘・一瀬美咲の手を引いて入室する。
少年の目は輝きが無く、無表情で、死人のそれを思わせた。
義一の隣に腰を下ろすと、その瞳で俺を睨むように覗き込んだ。
「美咲(みさき)は前にも会っただろう?」
「ええ、覚えています。可愛いお子さんで。」
実際にそう思う、その幼女は実に愛らしい。
「お世辞はいいよっと。・・・でも、あげないよ?」
「心得ております。」
俺は十も年下の子供に手を出すような人間ではない、将来、そうならないことを祈る。
義一は無表情の少年の肩を抱いて。
「この子は色々と訳ありなんだが・・・間違いなく私の子供だ。さあ、自己紹介を。」
少年は眉一つ動かすことなく、血色の悪い唇を動かした。
「一瀬一(はじめ)です。・・・母は、暗殺者でした。」
「え・・・?!」
隣で静かに話を窺っていた愛が驚愕に思わず声を上げた。
妹を諭し、俺は義一の顔を見る。
「・・・いや、済まないな、突然。しかし、この子の話は本当だ。・・・一は、私の大学時代の愛人との間に出来た子なのだ。裁判で親権は母方に移ったのだが、彼女が亡くなってね・・・。」
俺はお悔やみ申し上げた。
「ああ、いや、良いんだ。全ては彼女に何もしてやれなかった私が悪かったんだ。・・・家内も賛成してくれているし、遅くなったが彼女への償いとしても、この子を我が子として愛情を注いでいくつもりだ。」
義一の表情は幾分暗かった。
「少し俗世離れしたところもあるが、仲良くしてやってくれ。よろしく頼むよ。」
俺は彼らの事情を、心中を出来るだけ理解しようと努め、一つ大きく頷いた。
和子がいつの間にか整えた中庭で、愛が美咲と戯れている。
俺は縁側に腰を下ろし微笑ましくそれを見守るが、隣に座る一の目は疎ましげだ。
義一は後に仕事が控えているそうで、暫く話しこんだ後早々に引き上げた。
「もう少し良い顔をしたらどうなんだ?」
俺は二人から目を逸らさずに問いかける。
「あの子供さえ・・・」
「何だって?」
一の表情が怨恨に満ちていくのが横目に分かる。
「美咲さえ生まれなければ、母さんとボクは、苦労しなかったかもしれない。」
義一の今の妻ではなく、一の母と結婚したかもしれないと言うことか。
「美咲さえいなければ、あの男が家柄の違いごときに戸惑わなければ・・・。どうして母さんは、死ぬまであんな男を・・・。」
愛していた?
「・・・逆に訊くけどよ、お前がいなかったら、どうなってたんだ?」
皮肉を込めて、義一は問題の無い家庭を築けただろうに。
彼の奥方に申し訳なさと罪悪を感じることなく。
「・・・!?」
一はそれまで自分の座っていた場所を殴りつけ、俺に立ちはだかった。
「黙れ!お前にボクの何が分かる!順風満帆にのうのうと生きてきたお前に、ボクと母さんの苦労が分かるものか!!」
まりをついていた愛の手が止まり、叫ばれた声に驚き、幼い美咲は泣き始めた。
俺の足元に捨てられたように転がってきたまりは、疎まれ生きてきた彼らのようで。
「分からねぇよ。でもよ、お前色々言ってるけど、俺に何をして欲しいわけだ?・・・同情?哀れみ?それとも金?まさか、美咲を殺す手助けしろなんていわねぇよな?」
「違う!ボクが欲しいのはそんなものじゃ・・・」
俺は一を遮って。
「そんなものじゃないか?・・・じゃあ、お前、本当は一体何が欲しいんだ?」
「それは・・・」
暫く待っても、その先を少年は答えなかった。
泣き止まない美咲の声だけが響く縁側は、酷く沈んだ空気だった。
俺は足元のまりをそっと拾い上げる。
「・・・父上と母上が死んだ時よぉ、それまで親しくしていた人間が急によそよそしくなりやがった。仕事の後任を巡ってハイエナみたいに群がって、それでおさらばだ。・・・裏切られたって思ったよ。学校の連中も一緒だ、仲良くしてた連中に家のことで罵倒された日にゃあ、そいつら死にそうになるくらい殴り倒してやったよ。」
俺は羽織の袖からボックスを取り出す。
「それ以来、我ながらグレちまったもんだ。お陰でこいつがやめられねぇ。」
俺は和子から禁止されている煙草を一本取り出し、隠し持ったライターで火を燈す。
「今になって、俺と父上を裏切った連中に復讐しようが、何にもならねぇ。俺の人生をブタ箱にくれちまうだけだ。・・・だから俺は、今から明日に向けて出来る事をする。かと言って、過去を捨てきれたわけでもねぇが。」
後ろに和子の気配を感じるが、煙を噴出す今の俺に彼女は何も言おうとしない。
「まあ、『お前には分からねぇだろうけどな』。」
俺は縁側の土に煙草を押し付けて火を消すと、立ち上がってまりを愛に投げ返す。
北風が揺らぎ、少年のベレー帽を奪っていった。
「あ・・・。」
一の纏めてあった髪が解け、風の悪戯に踊らされた。
「女・・・の子?」
「・・・悪いか・・・。」
俺はふっと微笑んだ。
「結構、可愛いじゃん。」
『少女』は再び縁側に座り、俯いて俺にそれ以上赤い顔を見せなかった。
「・・・おう・・・。」
「怨影か。・・・富影もいるじゃねぇか。」
暗い表情で歩み寄ってくる怨影と、雅にも扇子を片手にのっそり歩く富影。
物欲家―彼らの父・金影(かねかげ)は、財界の重鎮であった。
・・・が、金の稼ぎ方使い方共に汚く、国内外での人身売買、麻薬の密売にまで手を伸ばしていたらしい。
そこに義一と我が父・羅剛が一策講じ、彼の経済を崩壊させ、結果的に物欲家を没落させることになった。
その後、金影は自決、その妻は心労から病に倒れ夫の後を追うように逝った。
とまあ、その責任をとる意味で一時散り散りになった五人の子を集め、下の三子を一瀬家の援助する施設へ、上の富影と怨影を父の全額援助により全寮制の中学へ入学させた。
無論、彼らは義一と今は亡き羅剛の子である俺に並々ならぬ怨恨を持っているのだろうが。
―俺の隣で俯く少女と同じように。
「富影『も』とは何じゃ、『も』とは!余に無礼であろう!」
幼い頃、金に不自由なく―いや、十分すぎるほど接しすぎたせいか、富影の口調は公家のそれだ。
「あー、分かった分かった。んで、ご用向きは?」
背後で煙草について咎める機を窺っていた和子に、茶を持ってくるよう頼む。
「・・・ああ、先の調査の件だ。」
長男・怨影の言葉に気の抜けた表情を引き締め、生死を分ける話に持ち替える。
「それで、どうだったよ?」
愛も美咲をあやしながら、耳に挟んでいる様子だった。
「どうもこうもないぞ!・・・全く、余も寿命が縮んだぞ。」
富影が扇子で髪を撫ぜる。
「・・・例のリビングデッドだが、もう十数人を手にかけているようだ。主婦が襲われるところを見たが、異常に発達した肋骨で攻撃してくる赤ん坊の死人だ・・・。」
怨影が表情を崩さずに言う。
「なぁる、それなら俺の妖刀も愛の符術も有効そうだな。他に特徴とかはねぇのか?」
彼は少し考えてから。
「生前受けた母親からの愛情に関係するのかもしれないが、被害者は女性が中心だ・・・。狙われるのは・・・。」
俺と怨影の視線が愛に重なる。
俺の不安を汲み取ってくれたのだろうか、彼は俺に視線を戻して言う。
「・・・良かったら、俺たちも行こう・・・。囮程度にはなるだろう・・・。」
俺は敢えて馬鹿にしたように噴出して。
「へっ、見えるだけで攻撃手段の一つももたねぇ奴らが来たって、足手纏いになるだけだよ。」
富影は額に血管を浮かせて怒りをあらわにし、俺を扇子で打とうとする彼を止めた怨影の目は細められていた。
「・・・富影、もういい。・・・行くぞ。」
怨影は最後の抵抗とばかりに俺に扇子を投げつけた富影を引き摺り、裏口を出て行った。
木戸の向こうから微かに声が漏れる。
「どうしてじゃ!あそこまで馬鹿にされて・・・兄者は何とも思わんのかや?!・・・父上の時もそうじゃった!何故、兄者は・・・」
それを遮り、怨影の声が庭園に仄かに響いた。
「・・・あいつは、あいつなりに俺たちを気遣っているんだよ・・・。」
富影は、もう何も返さなかった。
「へっ、そんなんじゃねぇよ・・・。」
俺は図星を突かれたのが気恥ずかしく、そう吐き捨てた。
「待ってください、兄様!!」
夜、裏庭の葉の無い木々がざわめく中、妖刀を背負った俺を愛が引き止める。
「何故です?!何故、私は行かせてもらえないのですか!!」
ざわめきを殺す妹の荒げた声に、俺は静かに答えた。
「聞いただろ、今回の死人は女を狙う。来りゃあ、お前が危険だ。」
愛は引き下がらない。
「兄様一人のほうがよっぽど危険ですよ!・・・兄様は、まだ破城刀も使えな」
「愛!!」
自らのあらを探られ、思わず叫んでしまう。
彼女に振り返ると、随分怯えた顔をしていた。
「済まねぇ。でもな、俺はもう大切な家族を失いたくねぇんだ。・・・血の繋がった、最後の家族を。」
愛は酷い顔のまま俯き、俺の言葉に答えてくれない。
俺は、愛の小さな身体をそっと胸に抱き寄せた。
「悪ぃ、今回は一人で行く。」
「兄様・・・。」
愛から離れると、俺は彼女の整った服装に気付いた。
「・・・お前、その服装はやめろttうぼぁら!!」
俺の鼻腔から深紅の粘液が噴出した。
「あ、兄様・・・!!大丈夫ですか?!」
巫女服―母上が愛用した戦闘衣装、何故か俺はそれに耐性がない。
妹の巫女姿に欲情する兄、最低だな。
戦に向かう水杯は、早くも俺を真っ赤に染めた。
俺は濁天の下、一人立つ。
嘗て妖刀と呼ばれた日本刀を手にし、背には未だ振る事さえままならない破城刀を担いでいる。
「この辺り、だな。」
俺は怨影たちから貰い受けた情報をもとに、赤子の死人が出現する地点付近の物陰に身を潜める。
『ぁぅ・・・』
・・・!
何の前触れも無く、その死人はゆらりと姿を現した。
肋骨は鋭く研ぎ澄まされ、それを足として蟲の様に蠢いている。
もはや赤ん坊と呼ぶには程遠い異形だった。
こちらにはまだ気付いていない、奇襲をかければ戦力差は補えるだろう。
「・・・!」
俺は気配を殺して死人の背後から駆け寄り、妖刀を赤ん坊の本体目掛けて一閃する。
『あぁ!!』
発達しない言語野の咆哮を放ち、肋骨で放った一撃を討ち払って、俺を妖刀の金属音と共に吹き飛ばした。
「ぐっ・・・!」
地面に叩きつけられ鈍痛が身体を突き抜ける。
立ち上がる間もなく、死人はアスファルトに肋骨を刻んで素早く俺に迫る。
『ぅー!!』
俺は冷え切った地面を転がり、その一撃をかわす。
俺の寝転んでいた場所は抉(えぐ)られ、その下の生の大地がむき出しになっていた。
俺は体勢を立て直し、反動の収まらない死人に再び突撃をかける。
―しかし。
またもや日本刀は肋骨に弾かれて金切り声を上げ、俺の身体は天高く紙の様に舞い上がる。
『・・・。』
赤子の顔がにやりと歪み、俺を追い駆けるように凄まじい速度の跳躍を見せる。
「ちくしょ・・・!」
空中では身を動かすことが叶わない。
死人の迫る一撃を日本刀で薙ぎ払うが、突き出た三対の肋骨による二撃目、三撃目が俺に襲い掛かる。
『ぁ〜ぅ〜』
尖った肋骨の先端が俺の腹部に迫り、貫くかと思ったその時―
「・・・!」
赤子の本体に突如飛来した護符が、迫る鋭刃ごと吹き飛ばして死人は俺と共に受身も取れず地面に落下した。
「兄様!」
「愛、来るなと言ったじゃねぇか!」
しかし、死人に深手はなかったらしい。
『ぃぃ・・・。』
赤子は肋骨で立ち上がり、母親に甘える嬉しそうな表情で見つけた少女に突進する。
「愛、逃げろぉ!」
愛は逃げない、あるだけ全ての護符を投げ付けその進行を防ごうとする。
俺も駆け出して死人の尻を追うが、地面に叩きつけられた衝撃と一撃脇腹に入っていた創傷で思うように身体が動かない。
「愛!」
『ぁー・・・』
「・・・!!」
俺が死人にようやく追い付いた時、そこにあったのは六本の骨槍に貫かれた愛の姿だった。
愛の口からは血が垂れ流され、瞳の輝きは失われて虚ろだった。
・・・死。
その言葉が俺の中を過ぎる。
「・・・ぁああああああーーーーーーーーーー!!」
俺は背中の斬馬刀を引き抜いた。
重量など気にならなかった、ただ、目の前の死人から愛を救い出すことだけを考えて飛躍する。
『が・・・!』
俺は重厚な一撃を風の如く振り下ろし、奴の肋骨を透過する。
肋骨が切り離されると同時に、奴は骨髄という腐汁を撒き散らして愛を離した。
「奥義・黒影剣!!」
俺は突進の勢いを殺さずそのまま上昇し、その強靭な胸骨ごと奴の本体を両断した。
『ぁぁ・・・』
浅ましい泣き顔を浮かべ、その赤子は消滅する。
先逝く母を追い駆けるように・・・。
「愛!」
破城刀を投げ捨て、駆け寄り抱き上げた愛の腕は力なく垂れていた。
「兄・・・様・・・。」
今は蚊の様に細い声が彼女から漏れるだけだ。
「ごめんな・・・さい。言いつけを、破・・・って、しまって・・・。」
「馬鹿!もうそんなこたぁどうでもいいんだよ!・・・だから・・・だから、早くうちに帰ろう。」
愛を抱きかかえ、立ち上がろうとした俺を彼女が震える手が引き止める。
「・・・兄様、私・・・分かるん、です・・・。愛は・・・もう・・・。」
俺の胸倉を掴む小さな手を握り返すと、それは酷く冷たかった。
「ふざけんなよ!お前は大丈夫だ、前にゾンビ野郎が噛み付いてきた時もそうだったろ?!」
愛の瞳から一粒、雫が落ちる。
死に際のそれにも似た、これ以上ない美しい涙だった。
―俺は認めたくなかった。
「・・・兄様・・・。私、兄様の事が・・・ずっ・・・と・・・。」
「分かってる、気付いてたよ・・・。だから、お前はこれから・・・!」
愛の瞳は次第に輝きを失い、ゆっくりと瞼を落とす。
薄れゆく意識の中、彼女の唇は呟いた。
「今度・・・生まれて、来る時は・・・一人の・・・女として、兄様に・・・逢い・・・たい・・・。」
それを最後に、彼女の震える手は静止し、俺の手の内から力なく抜け落ちた。
「い・・・と・・・?」
ふわりと、彼女の胸の上に一片の雪が舞い降りた。
それは彼女を導くように、場を清めては消えていった。
ぷつりと、『糸』のように途切れてしまった妹を、女として愛してやれないまま短い生涯を閉じた妹を、俺は強く抱き締めた。
「愛ぉぉぉぉーーーーーーー!!!」
雪を掻き分け、地を削り、掘り進める手を染めた深紅の血は、もう愛のものなのか俺のものなのか区別はつかない。
俺は掘り続ける、愛と過ごした日々の思いを掘り起こすように。
深く、深く・・・。
俺は十年という短くも深い穴を掘り終えたところで、そこに愛の身体を寝かせる。
「愛・・・ありがとう、さようなら・・・。」
俺は、愛の身体に優しく土を乗せた。
俺は立ち上がり、彼女を導いた雪の舞う空を仰ぐ。
「徹斎様・・・」
背中で友恵の声がかけられるが。
俺は振り向けない、止まらない涙で酷い顔だったから。
愛を葬った庭園の墓石を、降り積もる雪が覆っていく。
まるで、彼女の面影を隠してしまうかのように。
「俺が、俺さえもっとしっかりしていれば・・・!」
硬く握り締めた拳から赤い涙が滴り、雪を染めた。
俺は決意する、強くなると。
そして、父のよう立派な拝家当主となり、大切なものを護り抜き二度と失わないと。
「友恵、和子さん。俺、字(あざな)を貰うわ。」
この日のことを決して忘れないように。
自らの影に罪を背負い、そして愛が召されたこの雪に償いを誓う。
「・・・雪影。」
墓石から雪を払い、俺は大切だった、大切な愛にそっと花を手向けた。
それは、『俺』がそれまでの軽々しい言葉使いを止め、銀誓の門を叩く一ヶ月前の話。
気付くと、肩にはすっかり雪が積もっていた。
「愛・・・。」
儂はそれを手に取ると、決意を胸に握り締めた。
「・・・もう二度と、失いはせん。」
積もり始めた雪を踏み締め、儂は闇に身を溶かす。
今宵の柔らかな雪は優しげに、温かく身体を包み込んだ。
「裏水鴎流・闇斬ノ太刀・・・」
一閃が異形を透かし、月が晴れた時、既に死人は両断されていた。
余程の未練をこの世に残したのか、上半身だけになりつつも彼は儂の足元に縋(すが)り付く。
「悪いな。だが、もう眠れ・・・」
儂が破城刀【貫徹/鈴音】の峰でその頭を砕き、彼は腐敗した内容物を冷淡なアスファルトにぶちまけた。
月が再び姿を隠すと、それは浅ましい異臭を放つ気体と化し月影に蒸発した。
「ん。」
彼への手向けの花が儂の左手から離れた時、頬に冷たいものが降り溶け広がった。
空を見上げると旬の白い天使が彼を導くように地上に舞い降り、場を清めては消えた。
「雪、か・・・。」
丁度この頃だったか、あの誓いの日は。
「もう、五年になるか。」
贄の下、黒鉄により打たれた破城刀を鞘にしまうと、儂は再び濁天を仰いだ。
あの日と同じように。
「ど、どわっ!?」
・・・!!
重低音と共に、美しく整えられた庭園の一角が陥没する。
地面は割れ、石は砕かれ、その有様と言ったら以前の姿を知っている者なら誰でも目を覆いたくなるものだろう。
「はぁ、またやっちまった・・・。」
縁側を駆け寄ってくる草鞋の音を脇に、俺は毎度の失態に耳の後ろが痒くなった。
「あっ、やっぱり兄様だったのですね。」
薄手の振袖を身に纏った少女が、笑いながらも呆れた顔を俺に向けた。
「ああ、どうも上手くないんだよなぁ。」
少女は軽く溜め息をついて。
「兄様はまだそんな重いもの振れなくて良いのです。危なくなったら、この愛(いと)がお守り致しますわ。」
愛は唇に色白の小さい手を当て、くすくすと笑った。
「そうは言ってもな。妹に守られてる兄貴なんざ、格好悪いことこの上ないからな。・・・父上の残したこの太刀、何としても扱えるようにならねぇと。」
決意を再認し、俺は破城刀の柄を強く握り締めた。
愛(いと)、誰からも愛おしまれるようにと父上がつけた名だ。
幼少の頃は気にかけることは無かったが、数えの十なった今ではその名に恥じぬ可憐な容姿と温厚な性格を持ち合わせた人物に見える。
まあ、兄の俺が言うのもなんだが。
「お父上も仰られていたように、使うべきときが来れば自然とものになりますよ。・・・それに毎朝お庭がこの有様では、和子さんに申し訳が立ちませんし・・・。」
「かと言って、道場で降るわけにもいかないだろ?」
「そ、それはそうですけど・・・。」
毎朝道場の床をぶち抜くのか、その質問に愛は表情を曇らせた。
「私のことはお構いなく。」
愛の後ろから割烹着の女性が現れる。
「和子さん。」
一年前に俺の両親が逝った時、殆どの侍女は辞職届だけを残し此処を去った。
中にはここぞとばかりに年代物の骨董品を持ち出し、霧か霞のように消えた者もいた。
しかしこの和子という若い侍女は物好きにも居残り、俺たちの面倒を見てくれている。
滅多なことでは怒らない温厚さ、何事にも動じない肝の据わった一面、彼女からは時々母親の匂いがする。
「いつも迷惑をかけて済まねぇな。」
「本当に、ごめんなさい。」
愛が深々と頭を下げる。
「いいえ、この『日課』をしないと、私も一日の仕事に身が入りませんから。」
和子は可愛げに皮肉を込めて、若き主をからかった。
彼女の言う冗談は、いつも悪い気がしなかった。
将来、嫁をとるなら彼女の様な女性をと思っていたが、既婚であるのが悔やまれる。
和子の細身の腰から、少女は赤らめた頬を半分覗かせている。
「友恵姉さん。」
愛が少女の名を呼ぶと、後ろの影はびくりと身を振るわせた。
愛は和子の態度から、彼女を母のように慕っている節があり、その娘である友恵を親しみを込めて姉と呼んでいる。
「こら、友恵、朝のご挨拶しなさい。」
少女は母の小振りな尻に顔を押し付け、嫌々と首を横に振る。
少し羨ましいかも、娘の特権恐るべし。
如何わしい考えが表情に浮かんだか、隣に並ぶ愛が俺の手の甲を抓った。
「・・・済みませんね、この子ったら人見知りが激しくて。」
流石の和子お母さんも、これには手を焼いているようだ。
俺の一つ下―満の十一になってもこれでは、確かに和子の困りようにも頷ける。
「ったく・・・。」
こんな場で使うのは如何なものかと思いつつも、俺は日頃鍛えた俊敏性で素早く和子の後ろに回りこみ、逃れられぬよう友恵を抱き上げた。
「あ・・・」
小さく漏らして、友恵はじたばたと俺の腕の中で暴れ出す。
無論、それを離すはずも無い俺は抵抗する彼女の顔を凝視して。
「友恵。・・・友恵、おはよう。」
一瞬、彼女の抵抗が治まり。
「・・・おはよう、ございます・・・。」
友恵の顔は更に赤みを帯びて、火を噴出しそうだ。
愛の笑顔は黒かった、本能がそこに尋常ならざるものを感じて、俺は友恵を降ろした。
「ほら、愛にも挨拶してやってくれ。」
友恵は地面に足がつくと、俯いてもじもじと手をすり合わせながら。
「あ、あの・・・お、おはようございます・・・。」
「おはよう、友恵姉さん。」
気のせいだったか、愛の笑顔は純白に戻っていた。
友恵はこんなことで大丈夫なのだろうか、通う女子学園の小等部で変ないじめ等にあっていなければいいが・・・。
と、この様に心配してしまう節も愛に毒されているのかもしれない。
まあ、妹が一人増えたみたいで、悪い気はしないが。
「あ、そうそう。」
和子がぽんと手を打った。
「お昼から一瀬さんがお見えになるそうですよ。何でも、新しい家族を紹介したいそうで。」
「へぇ、新しい家族ねぇ。・・・おめでたか?」
「もう、兄様!」
友恵の顔はもう爆発寸前だ。
二人の妹、特に友恵はこういう弄り方をした時、一番可愛いのだ。
悪いと分かりつつもやってしまう不甲斐無い兄を許せよ?
「やあ、徹斎君に愛ちゃん、二人とも元気かい?」
「ええ、お陰さまで。本当にいつもお世話になってばかりで・・・」
俺と愛は、一瀬家当主・義一に深々と頭を下げる。
上座に座っているのが申し訳ないくらいだ。
「はっはっは、そんなに改まらなくても良いよ。君たちの事は、小さい頃から見てきた付き合いだしね。」
豪快に笑い飛ばした義一は、全くそういったことを気にしない大らかな人柄だ。
厳格だった父・羅剛(らごう)と親友として、そして死人との戦いで共に血に染まった戦友として噛み合ったのが不思議なくらいだ。
「いえ、色々と面倒を見ていただいたのも事実ですし、拝家当主としてここはけじめをつけて置かないと。」
一年前、両親が戦いの中で果てた際、この拝宗家は経済的にも人事的にも没落寸前の状態だった。
跡取りである嫡子は十を過ぎたばかりの子供、退魔の業もまともにこなせない、社会的繋がりの周りの人間たちは急速に離れていった。
そんな折、俺を拝宗家の当主に指名し、執権(いわば面倒見役)を申し出てくれたのが彼だった。
彼は退魔の業を引退後、投資家として活躍し、現在はどこぞの教育法人団体にも手を広げたのだとか。
一説によると、その団体も現役時代の絡みだとか。
まあ、退魔を生業とするもの同士、出会ったときには味方でありたいものだ。
「ところで、今日はどういった御用向きで・・・?奥様はお見えになっていないようですが・・・。」
義一は屈託も無くにっと笑顔を浮かべる。
「ああ、残念ながら、おめでたじゃないよ。」
俺の考えを読むことも、彼の長所であり俺から見た短所である。
「二人とも、入っておいで。」
年は小等部の中学年ほどだろうか、少年が今年二歳になった義一の娘・一瀬美咲の手を引いて入室する。
少年の目は輝きが無く、無表情で、死人のそれを思わせた。
義一の隣に腰を下ろすと、その瞳で俺を睨むように覗き込んだ。
「美咲(みさき)は前にも会っただろう?」
「ええ、覚えています。可愛いお子さんで。」
実際にそう思う、その幼女は実に愛らしい。
「お世辞はいいよっと。・・・でも、あげないよ?」
「心得ております。」
俺は十も年下の子供に手を出すような人間ではない、将来、そうならないことを祈る。
義一は無表情の少年の肩を抱いて。
「この子は色々と訳ありなんだが・・・間違いなく私の子供だ。さあ、自己紹介を。」
少年は眉一つ動かすことなく、血色の悪い唇を動かした。
「一瀬一(はじめ)です。・・・母は、暗殺者でした。」
「え・・・?!」
隣で静かに話を窺っていた愛が驚愕に思わず声を上げた。
妹を諭し、俺は義一の顔を見る。
「・・・いや、済まないな、突然。しかし、この子の話は本当だ。・・・一は、私の大学時代の愛人との間に出来た子なのだ。裁判で親権は母方に移ったのだが、彼女が亡くなってね・・・。」
俺はお悔やみ申し上げた。
「ああ、いや、良いんだ。全ては彼女に何もしてやれなかった私が悪かったんだ。・・・家内も賛成してくれているし、遅くなったが彼女への償いとしても、この子を我が子として愛情を注いでいくつもりだ。」
義一の表情は幾分暗かった。
「少し俗世離れしたところもあるが、仲良くしてやってくれ。よろしく頼むよ。」
俺は彼らの事情を、心中を出来るだけ理解しようと努め、一つ大きく頷いた。
和子がいつの間にか整えた中庭で、愛が美咲と戯れている。
俺は縁側に腰を下ろし微笑ましくそれを見守るが、隣に座る一の目は疎ましげだ。
義一は後に仕事が控えているそうで、暫く話しこんだ後早々に引き上げた。
「もう少し良い顔をしたらどうなんだ?」
俺は二人から目を逸らさずに問いかける。
「あの子供さえ・・・」
「何だって?」
一の表情が怨恨に満ちていくのが横目に分かる。
「美咲さえ生まれなければ、母さんとボクは、苦労しなかったかもしれない。」
義一の今の妻ではなく、一の母と結婚したかもしれないと言うことか。
「美咲さえいなければ、あの男が家柄の違いごときに戸惑わなければ・・・。どうして母さんは、死ぬまであんな男を・・・。」
愛していた?
「・・・逆に訊くけどよ、お前がいなかったら、どうなってたんだ?」
皮肉を込めて、義一は問題の無い家庭を築けただろうに。
彼の奥方に申し訳なさと罪悪を感じることなく。
「・・・!?」
一はそれまで自分の座っていた場所を殴りつけ、俺に立ちはだかった。
「黙れ!お前にボクの何が分かる!順風満帆にのうのうと生きてきたお前に、ボクと母さんの苦労が分かるものか!!」
まりをついていた愛の手が止まり、叫ばれた声に驚き、幼い美咲は泣き始めた。
俺の足元に捨てられたように転がってきたまりは、疎まれ生きてきた彼らのようで。
「分からねぇよ。でもよ、お前色々言ってるけど、俺に何をして欲しいわけだ?・・・同情?哀れみ?それとも金?まさか、美咲を殺す手助けしろなんていわねぇよな?」
「違う!ボクが欲しいのはそんなものじゃ・・・」
俺は一を遮って。
「そんなものじゃないか?・・・じゃあ、お前、本当は一体何が欲しいんだ?」
「それは・・・」
暫く待っても、その先を少年は答えなかった。
泣き止まない美咲の声だけが響く縁側は、酷く沈んだ空気だった。
俺は足元のまりをそっと拾い上げる。
「・・・父上と母上が死んだ時よぉ、それまで親しくしていた人間が急によそよそしくなりやがった。仕事の後任を巡ってハイエナみたいに群がって、それでおさらばだ。・・・裏切られたって思ったよ。学校の連中も一緒だ、仲良くしてた連中に家のことで罵倒された日にゃあ、そいつら死にそうになるくらい殴り倒してやったよ。」
俺は羽織の袖からボックスを取り出す。
「それ以来、我ながらグレちまったもんだ。お陰でこいつがやめられねぇ。」
俺は和子から禁止されている煙草を一本取り出し、隠し持ったライターで火を燈す。
「今になって、俺と父上を裏切った連中に復讐しようが、何にもならねぇ。俺の人生をブタ箱にくれちまうだけだ。・・・だから俺は、今から明日に向けて出来る事をする。かと言って、過去を捨てきれたわけでもねぇが。」
後ろに和子の気配を感じるが、煙を噴出す今の俺に彼女は何も言おうとしない。
「まあ、『お前には分からねぇだろうけどな』。」
俺は縁側の土に煙草を押し付けて火を消すと、立ち上がってまりを愛に投げ返す。
北風が揺らぎ、少年のベレー帽を奪っていった。
「あ・・・。」
一の纏めてあった髪が解け、風の悪戯に踊らされた。
「女・・・の子?」
「・・・悪いか・・・。」
俺はふっと微笑んだ。
「結構、可愛いじゃん。」
『少女』は再び縁側に座り、俯いて俺にそれ以上赤い顔を見せなかった。
「・・・おう・・・。」
「怨影か。・・・富影もいるじゃねぇか。」
暗い表情で歩み寄ってくる怨影と、雅にも扇子を片手にのっそり歩く富影。
物欲家―彼らの父・金影(かねかげ)は、財界の重鎮であった。
・・・が、金の稼ぎ方使い方共に汚く、国内外での人身売買、麻薬の密売にまで手を伸ばしていたらしい。
そこに義一と我が父・羅剛が一策講じ、彼の経済を崩壊させ、結果的に物欲家を没落させることになった。
その後、金影は自決、その妻は心労から病に倒れ夫の後を追うように逝った。
とまあ、その責任をとる意味で一時散り散りになった五人の子を集め、下の三子を一瀬家の援助する施設へ、上の富影と怨影を父の全額援助により全寮制の中学へ入学させた。
無論、彼らは義一と今は亡き羅剛の子である俺に並々ならぬ怨恨を持っているのだろうが。
―俺の隣で俯く少女と同じように。
「富影『も』とは何じゃ、『も』とは!余に無礼であろう!」
幼い頃、金に不自由なく―いや、十分すぎるほど接しすぎたせいか、富影の口調は公家のそれだ。
「あー、分かった分かった。んで、ご用向きは?」
背後で煙草について咎める機を窺っていた和子に、茶を持ってくるよう頼む。
「・・・ああ、先の調査の件だ。」
長男・怨影の言葉に気の抜けた表情を引き締め、生死を分ける話に持ち替える。
「それで、どうだったよ?」
愛も美咲をあやしながら、耳に挟んでいる様子だった。
「どうもこうもないぞ!・・・全く、余も寿命が縮んだぞ。」
富影が扇子で髪を撫ぜる。
「・・・例のリビングデッドだが、もう十数人を手にかけているようだ。主婦が襲われるところを見たが、異常に発達した肋骨で攻撃してくる赤ん坊の死人だ・・・。」
怨影が表情を崩さずに言う。
「なぁる、それなら俺の妖刀も愛の符術も有効そうだな。他に特徴とかはねぇのか?」
彼は少し考えてから。
「生前受けた母親からの愛情に関係するのかもしれないが、被害者は女性が中心だ・・・。狙われるのは・・・。」
俺と怨影の視線が愛に重なる。
俺の不安を汲み取ってくれたのだろうか、彼は俺に視線を戻して言う。
「・・・良かったら、俺たちも行こう・・・。囮程度にはなるだろう・・・。」
俺は敢えて馬鹿にしたように噴出して。
「へっ、見えるだけで攻撃手段の一つももたねぇ奴らが来たって、足手纏いになるだけだよ。」
富影は額に血管を浮かせて怒りをあらわにし、俺を扇子で打とうとする彼を止めた怨影の目は細められていた。
「・・・富影、もういい。・・・行くぞ。」
怨影は最後の抵抗とばかりに俺に扇子を投げつけた富影を引き摺り、裏口を出て行った。
木戸の向こうから微かに声が漏れる。
「どうしてじゃ!あそこまで馬鹿にされて・・・兄者は何とも思わんのかや?!・・・父上の時もそうじゃった!何故、兄者は・・・」
それを遮り、怨影の声が庭園に仄かに響いた。
「・・・あいつは、あいつなりに俺たちを気遣っているんだよ・・・。」
富影は、もう何も返さなかった。
「へっ、そんなんじゃねぇよ・・・。」
俺は図星を突かれたのが気恥ずかしく、そう吐き捨てた。
「待ってください、兄様!!」
夜、裏庭の葉の無い木々がざわめく中、妖刀を背負った俺を愛が引き止める。
「何故です?!何故、私は行かせてもらえないのですか!!」
ざわめきを殺す妹の荒げた声に、俺は静かに答えた。
「聞いただろ、今回の死人は女を狙う。来りゃあ、お前が危険だ。」
愛は引き下がらない。
「兄様一人のほうがよっぽど危険ですよ!・・・兄様は、まだ破城刀も使えな」
「愛!!」
自らのあらを探られ、思わず叫んでしまう。
彼女に振り返ると、随分怯えた顔をしていた。
「済まねぇ。でもな、俺はもう大切な家族を失いたくねぇんだ。・・・血の繋がった、最後の家族を。」
愛は酷い顔のまま俯き、俺の言葉に答えてくれない。
俺は、愛の小さな身体をそっと胸に抱き寄せた。
「悪ぃ、今回は一人で行く。」
「兄様・・・。」
愛から離れると、俺は彼女の整った服装に気付いた。
「・・・お前、その服装はやめろttうぼぁら!!」
俺の鼻腔から深紅の粘液が噴出した。
「あ、兄様・・・!!大丈夫ですか?!」
巫女服―母上が愛用した戦闘衣装、何故か俺はそれに耐性がない。
妹の巫女姿に欲情する兄、最低だな。
戦に向かう水杯は、早くも俺を真っ赤に染めた。
俺は濁天の下、一人立つ。
嘗て妖刀と呼ばれた日本刀を手にし、背には未だ振る事さえままならない破城刀を担いでいる。
「この辺り、だな。」
俺は怨影たちから貰い受けた情報をもとに、赤子の死人が出現する地点付近の物陰に身を潜める。
『ぁぅ・・・』
・・・!
何の前触れも無く、その死人はゆらりと姿を現した。
肋骨は鋭く研ぎ澄まされ、それを足として蟲の様に蠢いている。
もはや赤ん坊と呼ぶには程遠い異形だった。
こちらにはまだ気付いていない、奇襲をかければ戦力差は補えるだろう。
「・・・!」
俺は気配を殺して死人の背後から駆け寄り、妖刀を赤ん坊の本体目掛けて一閃する。
『あぁ!!』
発達しない言語野の咆哮を放ち、肋骨で放った一撃を討ち払って、俺を妖刀の金属音と共に吹き飛ばした。
「ぐっ・・・!」
地面に叩きつけられ鈍痛が身体を突き抜ける。
立ち上がる間もなく、死人はアスファルトに肋骨を刻んで素早く俺に迫る。
『ぅー!!』
俺は冷え切った地面を転がり、その一撃をかわす。
俺の寝転んでいた場所は抉(えぐ)られ、その下の生の大地がむき出しになっていた。
俺は体勢を立て直し、反動の収まらない死人に再び突撃をかける。
―しかし。
またもや日本刀は肋骨に弾かれて金切り声を上げ、俺の身体は天高く紙の様に舞い上がる。
『・・・。』
赤子の顔がにやりと歪み、俺を追い駆けるように凄まじい速度の跳躍を見せる。
「ちくしょ・・・!」
空中では身を動かすことが叶わない。
死人の迫る一撃を日本刀で薙ぎ払うが、突き出た三対の肋骨による二撃目、三撃目が俺に襲い掛かる。
『ぁ〜ぅ〜』
尖った肋骨の先端が俺の腹部に迫り、貫くかと思ったその時―
「・・・!」
赤子の本体に突如飛来した護符が、迫る鋭刃ごと吹き飛ばして死人は俺と共に受身も取れず地面に落下した。
「兄様!」
「愛、来るなと言ったじゃねぇか!」
しかし、死人に深手はなかったらしい。
『ぃぃ・・・。』
赤子は肋骨で立ち上がり、母親に甘える嬉しそうな表情で見つけた少女に突進する。
「愛、逃げろぉ!」
愛は逃げない、あるだけ全ての護符を投げ付けその進行を防ごうとする。
俺も駆け出して死人の尻を追うが、地面に叩きつけられた衝撃と一撃脇腹に入っていた創傷で思うように身体が動かない。
「愛!」
『ぁー・・・』
「・・・!!」
俺が死人にようやく追い付いた時、そこにあったのは六本の骨槍に貫かれた愛の姿だった。
愛の口からは血が垂れ流され、瞳の輝きは失われて虚ろだった。
・・・死。
その言葉が俺の中を過ぎる。
「・・・ぁああああああーーーーーーーーーー!!」
俺は背中の斬馬刀を引き抜いた。
重量など気にならなかった、ただ、目の前の死人から愛を救い出すことだけを考えて飛躍する。
『が・・・!』
俺は重厚な一撃を風の如く振り下ろし、奴の肋骨を透過する。
肋骨が切り離されると同時に、奴は骨髄という腐汁を撒き散らして愛を離した。
「奥義・黒影剣!!」
俺は突進の勢いを殺さずそのまま上昇し、その強靭な胸骨ごと奴の本体を両断した。
『ぁぁ・・・』
浅ましい泣き顔を浮かべ、その赤子は消滅する。
先逝く母を追い駆けるように・・・。
「愛!」
破城刀を投げ捨て、駆け寄り抱き上げた愛の腕は力なく垂れていた。
「兄・・・様・・・。」
今は蚊の様に細い声が彼女から漏れるだけだ。
「ごめんな・・・さい。言いつけを、破・・・って、しまって・・・。」
「馬鹿!もうそんなこたぁどうでもいいんだよ!・・・だから・・・だから、早くうちに帰ろう。」
愛を抱きかかえ、立ち上がろうとした俺を彼女が震える手が引き止める。
「・・・兄様、私・・・分かるん、です・・・。愛は・・・もう・・・。」
俺の胸倉を掴む小さな手を握り返すと、それは酷く冷たかった。
「ふざけんなよ!お前は大丈夫だ、前にゾンビ野郎が噛み付いてきた時もそうだったろ?!」
愛の瞳から一粒、雫が落ちる。
死に際のそれにも似た、これ以上ない美しい涙だった。
―俺は認めたくなかった。
「・・・兄様・・・。私、兄様の事が・・・ずっ・・・と・・・。」
「分かってる、気付いてたよ・・・。だから、お前はこれから・・・!」
愛の瞳は次第に輝きを失い、ゆっくりと瞼を落とす。
薄れゆく意識の中、彼女の唇は呟いた。
「今度・・・生まれて、来る時は・・・一人の・・・女として、兄様に・・・逢い・・・たい・・・。」
それを最後に、彼女の震える手は静止し、俺の手の内から力なく抜け落ちた。
「い・・・と・・・?」
ふわりと、彼女の胸の上に一片の雪が舞い降りた。
それは彼女を導くように、場を清めては消えていった。
ぷつりと、『糸』のように途切れてしまった妹を、女として愛してやれないまま短い生涯を閉じた妹を、俺は強く抱き締めた。
「愛ぉぉぉぉーーーーーーー!!!」
雪を掻き分け、地を削り、掘り進める手を染めた深紅の血は、もう愛のものなのか俺のものなのか区別はつかない。
俺は掘り続ける、愛と過ごした日々の思いを掘り起こすように。
深く、深く・・・。
俺は十年という短くも深い穴を掘り終えたところで、そこに愛の身体を寝かせる。
「愛・・・ありがとう、さようなら・・・。」
俺は、愛の身体に優しく土を乗せた。
俺は立ち上がり、彼女を導いた雪の舞う空を仰ぐ。
「徹斎様・・・」
背中で友恵の声がかけられるが。
俺は振り向けない、止まらない涙で酷い顔だったから。
愛を葬った庭園の墓石を、降り積もる雪が覆っていく。
まるで、彼女の面影を隠してしまうかのように。
「俺が、俺さえもっとしっかりしていれば・・・!」
硬く握り締めた拳から赤い涙が滴り、雪を染めた。
俺は決意する、強くなると。
そして、父のよう立派な拝家当主となり、大切なものを護り抜き二度と失わないと。
「友恵、和子さん。俺、字(あざな)を貰うわ。」
この日のことを決して忘れないように。
自らの影に罪を背負い、そして愛が召されたこの雪に償いを誓う。
「・・・雪影。」
墓石から雪を払い、俺は大切だった、大切な愛にそっと花を手向けた。
それは、『俺』がそれまでの軽々しい言葉使いを止め、銀誓の門を叩く一ヶ月前の話。
気付くと、肩にはすっかり雪が積もっていた。
「愛・・・。」
儂はそれを手に取ると、決意を胸に握り締めた。
「・・・もう二度と、失いはせん。」
積もり始めた雪を踏み締め、儂は闇に身を溶かす。
今宵の柔らかな雪は優しげに、温かく身体を包み込んだ。